戸田幸紀の鬱ちゃんバイブル #3|幸せの総量は決まってるんだ!

こんにちは。

“うっちゃん”(ポップな鬱を抱える人)27年目、戸田幸紀です。

鬱というほど重くない。でも心はとっくに限界を迎えている。シリアスではなく、ポップな鬱人のこと、“うっちゃん”。

先日職場で“うっちゃん”に出会いました。

仕事で己のミスに対し、「小3からやり直してー。。。」と僕に聞こえるか聞こえないくらいの声で呟いてました。

分かります。今その瞬間のミスはその場での出来事では決してない。

失敗と妥協、後悔の積み重ねから生じた必然的事象であり、決して偶発的に起きたことでは無い。

そのミスを取り返すのであれば、己が小学三年生であった時代まで時を巻き戻す必要がある、そんな背景での発言と解釈しました。

 

“うっちゃん”はネガティブを通り越して時空を超える。

生きづらい限界人なのだなと痛感しました。。

 

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最近強く思う事がある。

それは“幸せの総量”は決まっているという事だ。

とどのつまり幸せの上限は常に一定であり、変化はしない。
限られたパイの中で奪い合って成立しているのではないかという話だ。。。

 

例えば結婚式に出席したとする。

幸せそうな主役二人を前にして、果たして全員が同じ気持ちと言えるのだろうか。

僕も27歳に差し掛かり出席する機会も急増した。

自分もいつか、、と思うのは最初の一回目限りであり、2回目以降は基本的に億劫なイベントと姿を変える。

 

友人たちとの久々の再開。

学生時代の距離感を探りながらのコミュニケーション、そして場が温まってくると近況報告からの自慢話。

 

「来年からニューヨークに赴任する予定で・・・」、

「転職で給料が上がった・・・」、

「今度二人目が生まれる・・・」

 

本来、大事な友人の素敵な話だ。

決して自慢トークではない事は理解できる。本来、ただの近況報告の延長なのだ。

 

でも“うっちゃん”に全てを受け入れるキャパシティは存在しない。

後々、その事を知らなかったら知らなかったで、友人コミュニティからの疎外感で心に傷がつく。

とにかく息苦しい。

神経はすり減り、「お前はどうなの?」と査定されているような気分になる。

そんな数時間をお祝い金の3万円と共に強要される。

決して幸せなイベントでは無いのである。

 

主役二人の幸福の下には、僕たちの様な“うっちゃん”達の屍が積み上がっているのだ。

 

決して“幸せの総量”は変化しない。

誰かの不幸の上に幸せは積み上がる。

結論として、人生とは幸せの奪い合いなのだ

 

 

最近何かと話題のカップルユーチューバーだってそうだ。

なぜあんな気色の悪い文化が成立するのか僕には理解できないが、彼らに一つだけ理解を示すことが出来た。

 

彼らは本能的に理解しているのだ。

「自分たちの幸せを誇示しない限り、不幸へと転落する。幸せが周囲から搾取される。。」と。

 

だから必死になって自分たちが幸せであることを誇示するのだ。

自分は奪う側であり強者なのだと。。。

 

僕には見える、、彼ら独特の冒頭あいさつ。

「~チャンネルです!」と元気と幸せを振りまくその姿は、幸せを吸い取るディメンターの唇なのだと。。

 

僕は防御に徹する。

決して搾取する事もしない。

でも不幸にもなりたくない。

 

だから僕はこうして筆を執り、承認欲求というパトローナム(守護霊)を召喚する。。

 

画面越しにうっすらと移る自分の顔を見つめ、また一つ自分の事が嫌いになった、、、

明日は常に同じ周期でやってくる、、太陽さん、、もうちょっと待ってよ、、

 

戸田 幸紀

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